〝はじめて絵本に触れる子供たちへ〟
〝ふたたび絵本に出会う大人たちへ〟
ブログ主【えるまー。】が、
主観でレビューしていきます!
一味違う視点で絵本をお探しの方は、
是非いちど記事をご覧ください。
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作・新美南吉 絵・黒井健
昔からファンの多い絵本ですね、
最近はドラマなんかでも出てました。
何故かキツネという設定が
せつない展開を想像させて
しまいますが、とっても温かいお話♪
(ごんの影響かな?)
キツネの子どもが、手袋を買いに
人里まで下りてくる話。
店主は気付きながらも、ちゃんと
売ってくれるんですね。
この本で大切なのは、
お母さんキツネ
子どもキツネ
店主
この3人の心情でしょう。
人間がトラウマな母キツネ、
私としては
『何故子どもを行かせた…』
とあまり良い印象ではなかったり
子ぎつねの好奇心と不安のまじった
感覚は、子どもが抱く
感情そのものをリアルに表現していて
とても納得だったり
この店主は気付きながらも
それを微笑ましく思い
売ってくれたけれど、
そんな人は少ないのかもなー
なんて思いが生まれたりw
たぶん読み手それぞれに対し、
いろんな感じ方がある
独特な作品だと思います。
もし自分が国語の先生だったら、
読書感想は真っ先にこの本を
お題にするんだろなーっておもいました。
作・サトシン 絵・塚本やすし
ダメだ、なんかすごく切ない…
村で嫌われ者のカエル、誰よりも先に
旱魃(かんばつ)を知ることになる。
『ざまあみろ』とまで言っていたものの
結局は嫌われつつも、村人のために
雨乞いの歌をうたいはじめる。
カエルの、
感情が読めない変わらぬ表情が
余計に色々なコトを考えさせます。
なぜ、気持ちが動いたのか。
それと、最後のセリフ
『いつかはわかりあえるだろうか』
とても切ない気持ちになると同時に
きっとわかってくれるはずと
最後まで諦めることをしなかった
人より人情の熱いカエルに
他人を思いやる大切さを学んだ
気がします。
この本は、読み手によって
受け取り方が変わってきます。
読み終わった後、それぞれで
意見交換するのも面白いかもしれません。
余談ですが、昔話にも
似た話がありますよ。
【河童の雨乞い】です、
気になったら調べてみてください♪
作・絵 アンディ・ライリー
不謹慎な作品は、なるべく
避けてきたのですが
ここまで人気が出ては
やっぱりレビューしない訳には…
初期作から見させていただいてました
自殺うさぎの本シリーズが
幕を閉じるそうです。
(とんでもない悪ふざけが
やっと終わる…)
とはいえ、なぜでしょう。
毎回全ぺージを見尽くしてしまうのは、
恐ろしく好奇心をくすぐります。
そもそも、うさぎたちが何故そこまで
死に魅入られているのか、謎です。
ただ言えること、うさぎたちは
競うようにレベルの高い
自殺を常に模索している!
ただし、私は家に置いておくのは
ためらい結局は手放した絵本。
グロテスクな表現はそこまでありませんが、
見るだけでも気分を害す方も
いると思います。
過激な内容の苦手な方は、
見ないことをオススメします。
作・イエルク・シュタイナー
絵・イエルク・ミュラー
すでに、表紙からストーリーの片鱗が
滲み出ています。
薄暗い部屋で監視されながらも
拒む事なくヒゲを剃る後ろ姿、
訴えるような題名も
気持ちを押し殺したようで苦しい。
表紙をめくる前から、
若干の覚悟が必要ですね。
内容は…
想像以上に、メッセージ性が強く
社会のあり方やそこへ身を置く際に
自己を見失わない大切さなど
大人になった読み手の私には、
心が締め付けられるような思いでした。
自然破壊により、人の働く工場へ
くまが迷い込むところからはじまります。
くまという、力では敵わない相手すら
社会は押さえ込んでしまうんですね…。
それでも、『ぼくはくまなのに』と
自分を見失わないこのくまは
本当の強さを持っているのかもしれないと
そう思ってしまいました。
忙しさに追われても、
生きる為に働くのであって
働く為に生きている訳ではない
それを見失わない大切さを教えてくれます。
最後のページも、
読み手に考える余韻を残してくれていて
本当に素敵な作品だと思いました。
こんにちは。本日はポルコ・ロッソを
ラクガキしたので、それにちなんだ記事を。
男ですら惚れる男、ポルコです!
実名はマルコ・パゴット、
作中は愛称のポルコ・ロッソで呼ばれることが
ほとんどです。
個人的な見解ですが、豚の姿である時は
愛称で呼ばれているのかもしれません。
彼が豚になったのは、作中
ジーナがボヤくシーンでもわかる通り
魔法により豚の姿になっています。
とはいえ、悪い魔法使いがいるわけではなく
作品独特の世界観(第一次世界大戦後)という
生きにくい時代がそうさせたと言えるでしょう。
彼はエースパイロットとして戦争に参加していますが、
敵ですら墜落した戦闘機から助ける話があるほど
命に対して敏感な人。
そんな彼が経験してきたのは、
次々に落ちていく仲間戦闘機の記憶。
そしてついに、彼は人間に嫌気がさし
豚の姿になってしまいました。
作中ポルコ自身が、自分が
豚であることを気にしないのは
自ら望んだ部分もある気がします。
そんな彼ですが、作中に2度
人間に戻る場面があります。
決闘前夜の横顔と、決闘後です。
決闘前夜ポルコはフィオに、
ある物語を聞かせます。
それこそがポルコの忌わしい記憶だったのですが。
それを純粋に聞くフィオに心がほぐれたのか、
フィオには素直な気持ちで話せたからかは
はっきりとわかりませんが
『人間も捨てたもんじゃねぇ』
と思えたみたいで
一瞬、人間の横顔に戻っています。
次は決闘後、
カーチスに『顔を見せろ!』と言われます。
後ろ姿で観覧者にはわかりませんが、
カーチスの慌てようから
素顔に戻っているのが伺えます。
ジーナの気持ちをカーチスから聞いたから
という説が有力なようですが…
私としては、純粋なフィオのキスで
戻ったのではという思いが強いですね。
その後は、わりとあやふやに
終わってしまいますが
思わせぶりな演出があったりします。
フィオとジーナが仲良しになった話
その背景をよく見ていると
実はジーナの庭にある桟橋に
赤い飛空艇が停まっています。
小説のような、観覧者にその後を委ねる
粋な演出ですね♪
うーん。
私としては、豚のまま飛行機乗りを続け
ジーナの庭へたまに降り立ち
ばったりフィオに会い抱きつかれる
なんてほのぼのイメージで
締め括っているのですが、
みなさんはどうですか?
もしよかったら、また見返してみてください。
ラクガキしたので、それにちなんだ記事を。
男ですら惚れる男、ポルコです!
実名はマルコ・パゴット、
作中は愛称のポルコ・ロッソで呼ばれることが
ほとんどです。
個人的な見解ですが、豚の姿である時は
愛称で呼ばれているのかもしれません。
彼が豚になったのは、作中
ジーナがボヤくシーンでもわかる通り
魔法により豚の姿になっています。
とはいえ、悪い魔法使いがいるわけではなく
作品独特の世界観(第一次世界大戦後)という
生きにくい時代がそうさせたと言えるでしょう。
彼はエースパイロットとして戦争に参加していますが、
敵ですら墜落した戦闘機から助ける話があるほど
命に対して敏感な人。
そんな彼が経験してきたのは、
次々に落ちていく仲間戦闘機の記憶。
そしてついに、彼は人間に嫌気がさし
豚の姿になってしまいました。
作中ポルコ自身が、自分が
豚であることを気にしないのは
自ら望んだ部分もある気がします。
そんな彼ですが、作中に2度
人間に戻る場面があります。
決闘前夜の横顔と、決闘後です。
決闘前夜ポルコはフィオに、
ある物語を聞かせます。
それこそがポルコの忌わしい記憶だったのですが。
それを純粋に聞くフィオに心がほぐれたのか、
フィオには素直な気持ちで話せたからかは
はっきりとわかりませんが
『人間も捨てたもんじゃねぇ』
と思えたみたいで
一瞬、人間の横顔に戻っています。
次は決闘後、
カーチスに『顔を見せろ!』と言われます。
後ろ姿で観覧者にはわかりませんが、
カーチスの慌てようから
素顔に戻っているのが伺えます。
ジーナの気持ちをカーチスから聞いたから
という説が有力なようですが…
私としては、純粋なフィオのキスで
戻ったのではという思いが強いですね。
その後は、わりとあやふやに
終わってしまいますが
思わせぶりな演出があったりします。
フィオとジーナが仲良しになった話
その背景をよく見ていると
実はジーナの庭にある桟橋に
赤い飛空艇が停まっています。
小説のような、観覧者にその後を委ねる
粋な演出ですね♪
うーん。
私としては、豚のまま飛行機乗りを続け
ジーナの庭へたまに降り立ち
ばったりフィオに会い抱きつかれる
なんてほのぼのイメージで
締め括っているのですが、
みなさんはどうですか?
もしよかったら、また見返してみてください。